円山旧児童楽園(台北市立児童育楽中心)
まいど、ボブです。
台湾探索第3弾です。
前回までの記事:
廃墟探索は十分な装備と警戒がないと、怪我や事故に繋がります。
ここにある情報を元に探索してトラブルに巻き込まれたとしても責任は取りかねます。
ご注意ください。詳しくは下記URLをご覧ください。
https://haikyo.hatenablog.jp/entry/20190306/1551872433
円山旧児童楽園の歴史
円山児童楽園は日本統治時代の1934年に開園。台湾で最も古い、唯一の公営遊園地でした。
70年にはとなりに動物園が開業。幅広い世代に愛された。
しかし周辺に残っている古跡を保存するため、2008年には現在の場所へ移転することが決まっていました。
そして2014年12月16日に閉園となりました。
円山旧児童楽園で残っているもの1:観覧車
地下鉄の円山駅から徒歩で行くと、このような門が見えてきます。
その先に観覧車が残っています。
円山旧児童楽園で残っているもの2:メリーゴーランド
観覧車の奥には、メリーゴーランドが残っています。
円山旧児童楽園で残っている遊具はこの2つだけですが、奥には台湾の昔の建物が残っています。
円山旧児童楽園で残っているもの3:円山文化遺跡
「昨日世界」と書かれた場所には、清朝時代の建物を復元した場所があります。
一部の建物しか開放されていないですが、もう少し時間が経てばより植物が生えいい感じになると思われます。
円山旧児童楽園で残っているもの4:児童科学館
最後に紹介するのは、科学館です。
今は完全に囲いで囲まれており、中に入ることはできません。
加えてこちら側の入り口のすぐ横には警察の派出所があります。
まとめ
以上、円山旧児童楽園の紹介でした。
台北駅から地下鉄で数駅で行けるので、台湾行かれた際にはぜひ行ってみてください。
千越大樓(Qianyue Building)
まいど、ボブです。
また間が開いてしまいましたが、11月頭にいった台湾探索の続きです。
前回の物件はこちら
今回の物件は台中駅から徒歩圏内にある物件です。
なお100台湾ドル払うことで誰でも入ることができますので、台湾行かれた際はぜひ行ってみてください。(ヘルメットとか諸々持参で)
廃墟探索は十分な装備と警戒がないと、怪我や事故に繋がります。
ここにある情報を元に探索してトラブルに巻き込まれたとしても責任は取りかねます。
ご注意ください。詳しくは下記URLをご覧ください。
https://haikyo.hatenablog.jp/entry/20190306/1551872433
千越大樓の歴史
千越大樓は1974年に完成。デパート、映画館、レストラン、ディスコ、ナイトクラブ、スケートリンク、塾などが入る複合施設でした。
その時代の台中の若者たちは学校が終わったらこぞってこのビルに遊びに行き、青春を過ごしました。
ですが、度重なる火災の影響もあって入居者やテナントはどんどん減少。
2000年代にはほぼ廃墟のような状態になってしまいました。
そんな千越大樓を2017年に借りたのが、今管理を行っている「ESCAPE PLAN X」です。彼らの手によって千越大樓はアートスペースへと生まれ変わりました。
千越大樓の外観
外観はこんな感じです。
1階の店舗はまだ営業しているところが多いので、迷惑をかけないように階段を上がりましょう。
千越大樓の内観
中に入るとまずはこんな感じのソファが迎えてくれます。
インスタ映えを狙っている人が、このソファでポートレイトをよく撮っているようです。
どんどん階段を上がっていくと、こんな感じに多数のアート作品を見ることができます。
屋上にたどり着くと、飛碟餐廳(円盤レストラン)と呼ばれていた場所にたどり着きます。
この中の床はかなり傷んでいるので、もし2階で動き回るつもりであればお気をつけください。
あと屋上の周りには何も囲いがありません。
端を歩いているときに風で煽られたりしたらそのまま1階まで落ちますので、気をつけましょう。
アートスペース以外の場所も
大体の場所がアートスペースとして使われている千越大樓ですが、一部廃墟のまま放置されている場所もあります。
こちらですが、部屋のセンターにお立ち台があるのでディスコ跡かKTV(中国式キャバクラ)跡だと思われます。
その他学習塾の跡と言われている場所や、中華料理店の跡もありました。
まとめ
以上、台中にある千越大樓の紹介でした。
この物件ですが、複数のブログに2年後くらいに解体され別のビルが建設されると書かれていました。
このアートスペースがなくなるのは悲しいですが、行ける方は自分の思い出と記録の中に残すために行ってみてください。
Yuanlin Hospital
まいど、ボブです。
今回からは、11月に訪問した台湾の探索記録です。
1軒目の物件は残念ながら諸事情により探索できませんでした。
なので今回は2軒目の物件から紹介します。
廃墟探索は十分な装備と警戒がないと、怪我や事故に繋がります。
ここにある情報を元に探索してトラブルに巻き込まれたとしても責任は取りかねます。
ご注意ください。詳しくは下記URLをご覧ください。
https://haikyo.hatenablog.jp/entry/20190306/1551872433
Yuanlin Hospitalの歴史
Yuanlin Hospitalは1963年に保険局の病院としてオープンいたしました。
1997年には廃墟となり、20年以上放棄されています。
再利用の計画自体はあるようですが、資金繰りが上手くいっていないようです。
Yuanlin Hospitalの外観
外観はこんな感じです。
すぐ近くに中学校があるため肝試しに使われることもあるようです。
なお僕が行った際には10人位のグループが撮影会を行っていました。
Yuanlin Hospitalの内観:1階部分
1階部分は受付や薬剤室らしき部屋がありました。
この病院は窓が特徴的で可愛らしいですね!
Yuanlin Hospitalの内観:最上階部分
2階部分は撮影部隊がいたため、あまり写真を撮れる場所がありませんでした。
なのでその上の最上階です。
なお、最上階に行ける階段は1箇所だけなので最初は気づきませんでした。
なのでまだ見れてない箇所がいくつかあるかもしれません。
まとめ
以上、Yuanlin Hospitalの紹介でした。
駅からそれほど遠くもないので、もし台湾に行かれた際は行かれてはいかがでしょうか。
詳細不明の廃歯科医院
まいど、ボブです。
京都探索2軒目の物件です。
前回の物件はこちら。
廃墟探索は十分な装備と警戒がないと、怪我や事故に繋がります。
ここにある情報を元に探索してトラブルに巻き込まれたとしても責任は取りかねます。
ご注意ください。詳しくは下記URLをご覧ください。
https://haikyo.hatenablog.jp/entry/20190306/1551872433
詳細不明の廃歯科医院の歴史
こちらの物件の歴史は詳細には分かっていません。
たまたま近くにいたおばあちゃんに聞いたところ分かったのは下記の3点です。
・昔は歯科医院をしていた
・近くの廃墟となっている家の人がやっていた
・80代(90代だったかも)のおばあちゃんが子供のときには営業していた
これ以上の情報は地元の人により聞き込みをしないとわからないと思われます。
詳細不明の廃歯科医院の外観
外観はこんな感じです。
医院全体が蔦に覆われていました。
近くに車なども置かれていたので管理されているかと思ったのですが、裏に回ってみて管理されていないのではと思いました。
裏側は崩壊が激しく、2階のものが今にも上から落ちてきそうな状態になっていました。
こちら側は入れないと判断して、表から入ることにしました。
詳細不明の廃歯科医院の1階
1階部分も床の腐食が激しく歩けない部分が大半でした。
なので撮れたのはこれくらいです。
詳細不明の廃歯科医院の2階
2階部分は半分以上倒壊しており、階段を上がってすぐくらいの場所くらいしか入れませんでした。
正直歯科医院だと思えるような残留物はほぼなく、廃屋だと言われても違和感はない状態でした。
まとめ
以上、2軒目の物件の紹介でした。
もし近くに再度行く機会があれば地元の老人の方により聞き込みをしたいと思います!
海軍第三火薬廠(ロシア病院)
まいど、ボブです。
前回で三重探索は終了。 今回から数回は京都探索の話です。
今日紹介するのは京都探索の1軒目に行ってきた、通称ロシア病院です。
廃墟探索は十分な装備と警戒がないと、怪我や事故に繋がります。
ここにある情報を元に探索してトラブルに巻き込まれたとしても責任は取りかねます。
ご注意ください。詳しくは下記URLをご覧ください。
https://haikyo.hatenablog.jp/entry/20190306/1551872433
海軍第三火薬廠(ロシア病院)の歴史
海軍火薬廠(かいぐんかやくしょう)は元々神奈川の平塚市にあったのですが、そのうち爆薬部だけが1929年に舞鶴にやってきました。
(その後支廠が宮城県に作られます)
なぜ第三なのかというと、東(宮城・神奈川)から順に番号が割り振られたために第三となったためです。
昭和14年に農村だったこの地域一帯を海軍が買収。そして60世帯を退去させた後に火薬廠が建てられました。
日中戦争から太平洋戦争に至るまで、5,000人がここで労働していたと言われています。
多くの場所は解体され再利用されていますが、山中の一部に建物が残っている状態です。
砲炸薬成形工場跡
現地についてまず目に入るのが、手前にある工場跡です。
消火栓と書いてある上にあるのが、当時の海軍のマークです。
これがあるということで、海軍の施設だったということがわかります。
一番手前の工場跡にはこのような大きい管がありました。
工場のそれぞれの部屋に通っていたところを見ると、火薬の元になる粉末を運ぶ役割をしていたのではないかと思います。
爆薬工場の特徴として、建物以外の部分が木造になっています。
これは万が一爆薬が爆発したとしても、あえて壊れて衝撃を逃がすために木造で作られていました。
この場所で当時働いていたのは15歳から17歳の学生でした。
薬品で手がかぶれたり、冬の厳しい寒さに耐えたりしながら作業をしていたと思うとなんとも言えない気持ちになります。
粉薬一時置場
工場跡から先に進むと、草に埋もれたこの建物が見えてきます。
394という数字はアメリカ軍に接収されたときに割り振られた番号で、海軍内では扉に書いてある「戝661」で認識されていたと思われます。
中には当時の様子を知れるものはなにも残っていなかったです。
爆薬庫
そして、海軍第三火薬廠といえばこれ! という建物が、この爆薬庫です。
割り振られた番号は392。
入り口のところには当時の電灯が残っていました。
この建物の扉は鉄製でして、何十年経った今でも残っていました。
ちなみに中は水没しているので、入るのは厳しそうです。
こんな感じで真っ暗です。
まとめ
以上、海軍第三火薬廠(ロシア病院)の探索記録でした。
帰ってきてから調べると、この場所以外にも周辺に沢山関連遺構が残っているようでした。
次回行った際にはそのあたりの関連遺構も回収しに行こうと思います!