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海軍第三火薬廠(ロシア病院)

まいど、ボブです。

 前回で三重探索は終了。 今回から数回は京都探索の話です。

 

今日紹介するのは京都探索の1軒目に行ってきた、通称ロシア病院です。

 

廃墟探索は十分な装備と警戒がないと、怪我や事故に繋がります。
ここにある情報を元に探索してトラブルに巻き込まれたとしても責任は取りかねます。
ご注意ください。詳しくは下記URLをご覧ください。

https://haikyo.hatenablog.jp/entry/20190306/1551872433

 

海軍第三火薬廠(ロシア病院)の歴史

海軍火薬廠(かいぐんかやくしょう)は元々神奈川の平塚市にあったのですが、そのうち爆薬部だけが1929年に舞鶴にやってきました。

(その後支廠が宮城県に作られます)

 

なぜ第三なのかというと、東(宮城・神奈川)から順に番号が割り振られたために第三となったためです。

 

昭和14年に農村だったこの地域一帯を海軍が買収。そして60世帯を退去させた後に火薬廠が建てられました。

 

日中戦争から太平洋戦争に至るまで、5,000人がここで労働していたと言われています。

 

多くの場所は解体され再利用されていますが、山中の一部に建物が残っている状態です。

 

炸薬成形工場跡

現地についてまず目に入るのが、手前にある工場跡です。

 

消火栓と書いてある上にあるのが、当時の海軍のマークです。

これがあるということで、海軍の施設だったということがわかります。

 

 

一番手前の工場跡にはこのような大きい管がありました。

工場のそれぞれの部屋に通っていたところを見ると、火薬の元になる粉末を運ぶ役割をしていたのではないかと思います。

 

爆薬工場の特徴として、建物以外の部分が木造になっています。

 

これは万が一爆薬が爆発したとしても、あえて壊れて衝撃を逃がすために木造で作られていました。

 

 

この場所で当時働いていたのは15歳から17歳の学生でした。

 

薬品で手がかぶれたり、冬の厳しい寒さに耐えたりしながら作業をしていたと思うとなんとも言えない気持ちになります。

 

粉薬一時置場

工場跡から先に進むと、草に埋もれたこの建物が見えてきます。

 

 

394という数字はアメリカ軍に接収されたときに割り振られた番号で、海軍内では扉に書いてある「戝661」で認識されていたと思われます。

 

中には当時の様子を知れるものはなにも残っていなかったです。

 

爆薬庫

そして、海軍第三火薬廠といえばこれ! という建物が、この爆薬庫です。

 

 

割り振られた番号は392。

入り口のところには当時の電灯が残っていました。

 

 

この建物の扉は鉄製でして、何十年経った今でも残っていました。

 

 

ちなみに中は水没しているので、入るのは厳しそうです。

 

 

こんな感じで真っ暗です。

 

まとめ

以上、海軍第三火薬廠(ロシア病院)の探索記録でした。

 

帰ってきてから調べると、この場所以外にも周辺に沢山関連遺構が残っているようでした。

 

次回行った際にはそのあたりの関連遺構も回収しに行こうと思います!